涙のキッス



○○大学空手部恒例の夏季合宿最終日。
海に程近い合宿所でのハードな練習メニューの全てを終えた部員達は解放感に包まれて海
へとダイブし、帰路につくまでの自由時間、思い思いに海水浴を楽しんでいた。
そんな中、一人波と戯れることもなく、服を着たまま無表情にたたずむ者がいた。
「なーおとー!こっちこっち!早く泳ごうよーっ!!」
そんな彼に海の中から大きく手を振り、嬉しげに呼びかける者がいる。
たたずむ者・・・滝沢直人はその声に眉間の皺を深くした。
「直人ってばーっ!!」
呼びかける者・・・浅見竜也は返事がないのを聞こえていないとでも思っているのか、さ
らに声を張り上げて手を振った。
それはもう周りの人間の苦笑を買うほどに。
直人に眉間の皺はますます深くなる。
「滝沢く〜ん?泳がねーのぉ?ホラホラお友達の浅見くんがお待ちかねだぜ?」
同期の部員の一人が直人に近寄ってニヤニヤ笑いながら言った。
普段から竜也が必要以上に直人に懐いてまわるのは、空手部だけでなく大学中の周知の事
実だった。
実は二人は既に浅からぬ関係なのだがそんなことはもちろん周囲の知るところではなく。
その様はまるで甘えたがりな大きな犬が尻尾を振り振り主人にひたすらついて回る姿にも
似て、それを面白半分にからかう輩は実は少なくなかった。
その被害を被るのは大抵直人の方で、直人は毎回ウンザリする思いをしているのであった。
そして今また声を掛けられたことで、直人の中で抑えていたものは音もなく静かにキレた。
元々泳ぐ気など全くなかったのに竜也に無理矢理引っ張ってこられたのである。
直人はからかってきた男を眼光鋭く一瞥し、無言で踵を返して海を背に歩き始めた。
「え・・・な、直人っ!?ちょ・・・っ、待ってよお!!」
それを目にした竜也は慌てて直人を追おうとした。
その時事件は起こった。
「――――――――――っ!?」
泳ぎだそうとして水中で足を伸ばした瞬間、竜也は左足に突如激痛を感じてとっさにその
足を押さえるように水中で蹲った。
左足の脹脛の筋肉がピンと張り詰め痙攣する。
竜也は足が攣ったのである。
痛みもさることながらいつまでも水中に蹲っていては息が出来なくて、竜也は空気を求め
て一度水面に顔を出した。
大きく呼吸をしてみるものの、強張った足は痛みを訴えたまま動かすこともままならずす
ぐに体は水中に沈む。
水深のある場所で泳いでいた為片足を足場につくことも叶わず、浮き沈みを繰り返してい
た竜也の体は次第に沈んでいった。
竜也の異常はすぐさま周囲の知るところとなる。
「浅見っ!?」
「どうしたっ!?」
騒然となる浜辺。
もちろん直人もその騒ぎに顔色を変え、振り向きざま海へと駆け出していた。
近くにいたものが素早く駆けつけ救助したものの、浜辺に担ぎ上げられた竜也に意識はな
かった。
水を飲んでいるらしく、一刻も早い人工呼吸を必要としていることは誰の目にも明らかだ
ったが、その方法を知識では知っているものの実際に経験がなくしかも相手が同性なだけ
に皆一様に顔を見合わせ尻込みしていた。
「どけっ!!」
そんな人垣を乱暴に押しのけて竜也のそばに跪いたのは直人だった。
「お、おい滝沢・・・っ」
直人は周囲の声に耳も貸さず、横たわる竜也の顎を上げさせ鼻を摘み、唇全体を覆うよう
にためらいなく口付けた。
一瞬周囲にどよめきが走る。
直人はそれを全く気にすることなく、大きく息を吹き込んでは離し強く両手で胸を押すと
いう動作を何度も繰り返した。
直人の真剣で必死な様子に、周囲はそれを固唾を飲んで見守った。
一方竜也はというと。
溺れた瞬間から完全に意識を失っていたのだが、胸を押される圧迫感にゆっくりと意識が
浮上してきていた。
(何・・・?あれ・・・俺どうしたんだ・・・?)
(何か・・・胸が重くて痛い・・・でもあったかいな・・・これ・・・手の平?)
(それに何か口・・・塞がれてるような・・・)
(柔らかい・・・これ・・・この感触って・・・なお・・・と?)
(そうだ・・・直人の唇・・・だ)
(じゃあ俺・・・今・・・キスされてるの?直人に・・・?何で・・・?)
(ああでも・・・そういえば久しぶりだよねぇ・・・キス・・・するの)
取り戻しつつある意識の片隅で周囲の心配を他所に竜也がそんな大間違いな事を思ってい
たころ、直人の必死の努力の甲斐あって程なくして竜也は飲んでいた水をしたたか吐いた。
むせると同時に大量の酸素が竜也の体を巡り目の前が生理的な涙で白く霞む。
その向こうで自分に覆い被さっていた人影が離れていくのが見えて竜也は思わずその影に
縋りついた。
(やだ・・・なんで離れちゃうの・・・?もっとして・・・直人・・・もっと・・・)
悲しいかな。覚醒したての半ば寝ぼけたような覚束ない思考回路では現状を理解するには
至らず、ただただ与えられる口付け(だと思い込んでいる)の快楽を求める竜也はその首
に腕を絡めて引き寄せ自分から唇を重ねた。
仰天したのは直人である。
やっと水を吐き出して竜也が呼吸を取り戻したのを確認してほっと安堵し、離れようとし
たところをおもむろに首に腕をまわされ力任せに引き寄せられた直人は目を剥いて硬直し
た。
一体何がどうなっているのか。
一瞬パニックに陥りかけたが、目の前の竜也のうっとりとした表情と押し付けた唇の間か
ら舌を差し入れようとする仕草から、竜也が何か大きな勘違いをしていることに直人はす
ぐに気がついた。
しかも衆人環視の中である事実にも遅まきながら気がつき、直人は必死の抵抗を試みても
がいたが、半分意識が飛んでいる竜也の力は容赦がなかった。
離れようとすればするほど夢中でしがみついてくる竜也にとうとう直人はキレた。
(この・・・バカタレがっっ!!)
怒りに任せて左拳を握り締め、直人は至近距離から竜也の右脇腹めがけてその拳を打ち込
んだ。
「○×☆●◎★※◇◆〜〜〜〜〜っっっ!!」
直人渾身のリバーブローは見事に決まり、竜也は残っていた水を全て吐き出して声もなく
悶絶し落ちた。
竜也の腕から解放され、直人は大きく深呼吸して額の汗を拭った。
そうして我に返ると周囲の形容しがたい空気と突き刺さる言いようのない視線を否応なく
感じて、直人のこめかみをまた冷たい汗が流れた。
誰一人言葉を発することも動くこともままならない中、直人はおもむろにのびた竜也を横
抱きに抱え上げすくっと立ち上がった。
「主将」
「お、おう・・・っ!」
そんな直人に正面からいきなり指名され、空手部キャプテンである男はびくっと肩を震わ
せた。思わず声も裏返る。
「水は吐きましたがまだ意識が戻らないようなんで・・・。こいつ宿舎で休ませます。俺
が見てますから」
「あ?あ、ああ・・・そうだな。頼む」
平然とそう言い放つ直人に空手部キャプテンである男は戸惑いつつも頷くしかなかった。
そして竜也を抱えて歩き出す直人に、取り囲むように人垣を作っていた部員達は避けるよ
うに道を開け、去って行くその後ろ姿を呆然と見送った。
「なあ・・・さっき浅見の奴・・・意識戻ってなかったか?」
「動いたよな確かに・・・」
「それを滝沢が殴りつけた・・・ように見えた・・・が」
「つーか・・・。後半の人工呼吸・・・何かおかしくなかったか・・・?」
「なんか・・・アレって・・・なあ・・・?」
「「「「「・・・・・・・・・・」」」」」
たった今目の前で繰り広げられた不可解な光景に誰ともなく疑問を囁きあうがそれに答え
る者はなく。
その場にいた全員の脳裏に困惑と疑念を残しつつ、○○大学空手部恒例の夏季合宿は終了
を向かえたのであった・・・。





師走の最中に季節外れで申し訳ない。
実は元ネタがありまして〜。
先日TVで100と1匹のダルメシアンの映画を見まして。
その中の飼い主二人の出会いのエピソードで
池で溺れた飼い主(女)を飼い主(男)が助けて
マウス・トゥ・マウスの人工呼吸をしたという件があったのですが
(そのシーンそのものはなかったですがその後の二人の会話の中で)
その時を思い出しての飼い主達の会話。
「驚いたわ。いきなり覆い被さってくるんですもの」
「あれはれっきとした人工呼吸法だ。でも上手くできなかった。
じっと横になっててくれなきゃ上手く空気が入らないのに
首に腕をまわして引き寄せるんだもの」
「・・・ごめんなさい。でもとても上手だったわ」
この会話で激しく妄想してしまった次第です。
我ながらアホだ・・・アホ過ぎる・・・。


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